法話:貴さの物差しと尊さの物差し

どうも、お坊さん大道芸人のとっしゃん(@tossyan753)です。

僕が仏教の教えの中で好きなもののひとつに、他と比べる事ばかりして窮屈になっている自分に気付きなさいよというものがあります。

私たちはどうしても色々なものを比べてしまいます。自分はあの人より優っているとかあの人より劣っているとかを考えて生活をしています。

でもそういうのって結構しんどい生き方なんですよね。

今回は「とうとい」という言葉から、仏教的な生き方に触れてみたいと思います。

ふたつの「とうとい」

「とうとい」という言葉はふたつの漢字があります。

「貴い」「尊い」ですね。

この2つの漢字の意味の違い、わかりますでしょうか?

「貴い」の「貴」の意味

「貴」には、「他と比べて価値が高いもの」という意味があります。

例えば「貴金属」と呼ばれる金属がありますね。

金や銀、白金、パラジウム、ロジウムなんかが貴金属です。

これは他に比べて存在が希少な金属の事を指します。

金や銀などは、一般的な金属である鉄や銅に比べて産出量が少ない。

だから「貴い」んです。つまり「有用価値」がある事が貴いのです。

 

「尊い」の「尊」の意味

もうひとつの「尊い」の「尊」には、「それ自体が素晴らしい事、価値がある事」を意味します。

こっちの尊いには、他と比べるような意味合いはありません。

存在自体が素晴らしい、それ自体に価値がある。

それが「尊」の意味です。「存在価値」という事ですね。

 

「貴さの物差し」は勝ち組、負け組を生む

さて、「貴い」と「尊い」のふたつの意味を見ていきましたが、あなたは普段の生活で、他と比べてばかりの生き方をしていないでしょうか。

つまり貴さの物差しだけで生きていないかという事ですね。

僕たちは、日々の生活の中で比べられながら育ってきました。

学校では勉強が出来る子やスポーツが出来る子が褒められてきましたし、会社に入ってからも営業成績がいい人、つまり会社に利益をもたらす人が褒められます。

こういう人は「貴い」、役に立つから褒められるんですね。

常に比べられ、役に立つかどうかで計られているという事が社会の現実の姿だと思います。

ではこの貴さの物差しだけで生きていくとどうなるのかというと、苦しみ、悩み、悲しむ人があとを絶えず出てくるようになります。

だって、学校や会社で落ちこぼれた人たち、役に立たない人は自分の存在価値を見いだせなくなりますからね。

 

「尊さの物差し」を持つ

さて、そういった自分の存在価値を見いだせないという事は現実問題として起こっています。そこで僕達に必要なのが、「尊さの物差し」なのです。

尊さの物差しとは何かというと、すべてのものは尊い、どれであっても尊いとみる物差しです。

どれも等しく尊いので、目盛りのない物差しですね。

これは「仏の物差し」と言ってもいいでしょう。

テストで100点を取った人が、0点だった人よりも優れているという事はないし、会社に利益をあげて貢献したから、サボリーマンより優秀という事もありません。

みんな同じように尊い。存在自体に敬意を評し、そのままで認め合う。

それが「尊さの物差し」です。

この物差しを持っておくと、自分が生きるのが楽になります。

僕は僕で尊い存在ですし、あなたはあなたで尊い存在なのです。

 

まとめ

初の法話的な記事ですが、いかがだったでしょうか。

僕は学生のときに、ジャグリングが上手くないと存在価値がないという風に考えていた時があります。

でも練習しても練習してもトップジャグラーとの技術の差は開く一方で、自分はジャグリングをやる資格がない、才能がない、そういう全然ダメな人間なんじゃないかとすごく悩んだ時期がありました。

今思えばジャグリングが上手い人が偉くて下手な人はダメという比較の物差しで見ていたんですね。

でも、そうじゃなくてジャグリングとの付き合い方は色々あるし、ジャグリングの世界で負けてたって人生が終わるわけじゃないんですよね、当たり前ですが。

もし自分は負け組だと思って苦しんでいる人がいたら、それは比べる物差しだけで自分を見ています。

尊さの物差しも持って生きていくと、少し楽になりますよ。

人はみな尊い。その前提があってから、貴さの物差しを使っていきましょう。

この記事が気に入ったら是非シェアしてください!