どうも、お坊さん大道芸人のとっしゃん(@tossyan753)です。
ボードゲームの略称をどうするか?という話題がツイッターのボードゲーム界隈で盛り上がっていました。
というのも、現状の「ボドゲ」は全部の文字に濁音がつくので、音としてあんまり綺麗じゃないと。
なので何か良い略称がないのかな?という内容で「シュピール」「盤ゲー」など色々なアイディアが出て盛り上がっていましたね。
でも、僕は「ボドゲ」でいいんじゃないかなと思うんです。
なぜならボードゲームをすると人間は濁っているという事がよく分かるからです!
ホトケとボドゲ
善照寺では、月に1度、お寺でボードゲーム会をやっていて、そこでは「ホトケとボドゲ」というキャッチコピーを使っています。
なんでこのキャッチコピーにしたかというと、お寺らしいという事もひとつの理由ですが、濁音ばかりの「ボドゲ」という響きの中に、人間の濁りを示唆しているなぁと感じるんですよね。
ボードゲームをやる度に、煩悩にあふれて、自分の事ばかりを考えている自分に気付くわけです。
遊ぶたびに濁りを知る
ボードゲームを遊ぶ度に、自分の濁りを思い知らされます。
『人狼』をやれば人を欺き、ときには嘘をついて場を混乱させ、『カタン』をやれば盗賊で他人の足を引っ張ったり、街道でジャマをしたりして、自分だけが得をするようにプレイしています。
何を遊んでいるときも、常に自分の得ばかりを考えています。
ゲームを遊ぶとその人の本性がわかるなんていう人もいますが、まさに自分の悪性が顔を出しているんですよね。
自分の身を犠牲にしてまで、相手を助けるなんていう気持ちはゲームであってもほとんど湧いてきません。
まさに自分は濁った存在なんだなぁと常々思うわけですよ。
邪見憍慢悪衆生
急に漢字ばっかりの文が出てきて申し訳ないですが、上の言葉は正信偈の中の一文です。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人の書かれたもので「じゃけんきょうまんあくしゅじょう」と読みます。
邪見とは間違ったものの見方の事です。
憍慢とは、思い上がって、他を見下して満足する心のはたらきです。
つまり、真実が分かっていなくて、それにも気付かず他を見下したり、自分がすごいと思っていたりする。
そういう姿を指している言葉が「邪見憍慢悪衆生」なのです。
まさにボードゲームを遊んでいるときの自分です。
楽しくプレイしているのですが、ゲーム内では自分の利しか考えていません。
いや、ボードゲームをしているときに限らず、普段の生活でもまず自分の事が最優先で生活をしています。
自分中心でしか物事を考えられず、煩悩に振り回されて生きているのが私なのです。
ホトケさんは清らかな存在
一方で、ホトケさまはどうなのでしょうか?
阿弥陀仏が浄土真宗のもっとも大切な仏さまなのですが、こちらは経典の中では完璧な存在として描かれています。
煩悩に振り回されていて、修行して悟ることなどができない私たちこそが阿弥陀仏の救いの目当てです。
「自分の力で悟る事ができないのなら、私が極楽浄土に連れていくので、そこで悟りを開きなさい。」と常に呼びかけてくださる仏さまなのです。
気付きこそが第一歩
お寺で遊ぶからには、何かしら学びがあって欲しいと思っているのですが、浄土真宗の教えの第一歩というのは、気付きだと僕は思っています。
この気付きというのは『ウォーリーを探せ』に似ているかもしれませんね。
最初にウォーリーを見つけるまでは、どこにいるのか検討もつきません。
ページを隅から隅までくまなくさがし、ウォーリーを探します。
でも、一度見つけてしまうと、次からは簡単にウォーリーを見つけることができます。
そのページのどこにウォーリーがいるのか知っているからです。
気付かないのは、自分にとっては見えていないものなので、ないのと一緒です。
しかし、一度見つけると、二度と見つける前の状態には戻れません。
一度気付いてしまうと、そこから目を離せなくなっちゃうのです。
今までは気付かなかったけど、自分が濁っているという事に気付くと、二度と気付く前の状態には戻れなくなります。
そしてこの身をどうしたら良いのかを考える。
それが仏道の始まりだと思うのです。
まとめ:ホトケに見守られながらボドゲを遊ぶ
というわけで、色々と仏教的な事も書きましたがボードゲームの略称が「ボドゲ」というのは、個人的にすごくよく出来ているなぁと思うわけですよ。
やいのやいのと遊びながらも、ウマが合わない人もいて、腹も立ち、正に自分はとんでもない悪性を備えた人間だという事に遊びを通じて気付かされます。
その一方で、濁っていないホトケさまの住む世界である極楽浄土とは一体どういうところなんだろうか?という事も合わせて考えさせられてしまいます。
「ホトケ」さまに見守られながら、「ボドゲ」を通じてどうしようもない濁った自分に気付く。
お寺でボードゲームのキャッチコピーである「ホトケとボドゲ」はそんな思いが込められています。