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不可思議(ふかしぎ)がおもしろい。考える事ができないとはなんぞや?

どうも、お坊さん大道芸人のとっしゃん(@tossyan753)です。

仏教には良い言葉がたくさんあるのですが、中でも好きな言葉あります。

それが不可思議(ふかしぎ)。

この言葉は、人間の有限性や、仏教の懐の深さを感じられてとても良いんですよね。

今回はこの言葉について解説や思うことを書いていきます。

思いはかる事が出来ない

不可思議という言葉は、「不可」と「思議」の2つに分ける事ができます。

不可は、ある行為が実行できない、実行されない事を意味します。

不可避は避けられない、不可解は理解されないという風に使われますね。

思議とは思いはかること、考えをめぐらせるという意味なので、不可思議という言葉は思いはかったり、考えをめぐらせる事が出来ないという意味になります。

考える事ができないものというのが、不可思議の意味です。

 

阿弥陀仏の本当の姿

不可思議は、仏さまの本当の姿を表す表現として使われます。

「そうは言っても、仏像とかの目に見える形になってるやん!」と思うかもしれませんが、それは私達に見えるように仏像の形を取ってくれているだけです。(これを方便と言います)

本当の姿は、色も形もなく、思いも及ばず、言葉で言い表す事も出来ないんです。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。

『唯信鈔文意』より(真宗聖典709P)

思いも及ばず、言葉で言い表す事も出来ない…。

この表現にすごく深みを感じるんですよね。

 

人間が考えられる事は不可思議ではない

僕がこの不可思議という言葉を通して、めちゃくちゃ大きなものの存在を感じると共に、自分の小ささや有限さをすごく感じるんですよね。

人間が考えられる事、分かった事は不可思議ではないんですよ。

人類が宇宙に行っても、もっともっと科学が発展して、宇宙の外側、タイムマシン、不老不死なんかが出来るようになっても、不可思議は成立するんですね。

なんせ、分かった瞬間に即それを否定するのが不可思議ですからね。

 

不可思議のあるありがたさ

この不可思議という言葉は、現代に見直されても良い言葉だと思うんですよ。

社会はどんどん発展して、不可能だった事が次々と可能になってきています。

ネットで調べたら大抵の事が分かるようになっていますし、便利な製品、サービスも次々に出てきて、人類全体がこのまま発展していけば不可能な事はなくなるのではないか?という万能感がありますね。

でも、不可思議の世界も忘れてはいけない。

人間に考えられるもの、言葉にできるもの、表現できるもの。

そういったものを超えた世界があるという事を、たまには思い返すのも良いですね。

ご縁とか、おかげさまといった言葉もそうですが、自分の考えが意思が及ばない領域があり、そういう存在を認める事も大切だと思うのです。

 

正信偈の中にも出てきますよ

ちなみに、浄土真宗では日常のお勤めでもよく読む『正信偈』の中にも不可思議があります。

2句目に「南無不可思議光」と書いてあります。

自分は何でも出来ると思わず、考えの及ばない、思いはかる事の出来ない光(ここでの光は阿弥陀仏の意味ですが)にお任せをする。

そういう姿勢はとても大切だと思うんですよね。

ちなみに南無については以前に書いてありますのでこちらも合わせてご覧ください。

 

まとめ:不可思議をかんがえる

僕は寝る前に、不可思議について考えている事が多いですね。

自分で何かが分かっても、それを超えた世界がまだあると感じたり、そもそもそういうものではないんだよと語りかけてきたり。

否定の否定の否定…みたいな考え方をしてみたりするのですが、分かる日は来ないんでしょうね、だって不可思議だもの。

お釈迦様の手のひらで飛び回ってる孫悟空のような感覚にもなったりしますけど、仏教は面白く、この言葉がある事で世界は面白いなぁと思うわけです。

良かったら、あなたも寝る前に少し「考える事ができない世界」を考えてみてください。

すぐ寝れますよ笑